LOGIN 扉が静かに閉じた瞬間、外の冷たさが断たれ、異様な
帳の向こうに数人の女がいた。――かつて花嫁として差し出され、この地に留まった者たち。
男は歩を止めず、背を向けたまま言った。
「ここへ連れて来られた娘は、みな世の外へ追いやられた。 途上で暴に晒され、辱められ、名を失い、そして淵に届かず果てた」低い声が広間の虚を震わせ、灯火の揺れさえその響きに従った。
「――それでも生き延びた者を、ここに迎えた。
彼女らを匿い、自由を与えた。今は守や侍女として、この殿に仕えてくれている」女たちは言葉を持たず、ただ男を仰いだ。その瞳には怯えではなく、救い主への崇拝にも似た光が宿っている。虐げられ、地獄の運命を辿った末に、唯一この男の庇護だけが彼女らに残された安息であったのだ。
――この男は怪物ではない。けれど、人ではありえない。
瑞礼は瞬いた。これが真実なら、村で語られた断末魔の像とはいったい何だったのか。安堵のはずが、胸の奥では氷と火がせめぎ合うように疼く。湖に漂う声はこの男への怨嗟ではなかったのだ。――それは、世という名の理不尽へと放たれた慟哭。その叫びの残響がこの静寂の奥でまだ息づいている気がした。
瑞礼の喉はひとりでに鳴り、息が詰まる。 怪異と恐れられた龍神はいま目の前に在る。
布越しに指先が瑞礼の顎をかすめた。刹那、稲妻のような熱が走る。触れたか否かさえ定かでない。けれどその微細な距離に、世界のすべてが凝縮されたように感じられた。
「……っ」
恥じらいと戸惑いが頬を染める。震える声で瑞礼は口を開いた。
「あなたには……もう、多くの伴侶が……いるのでしょう」
金紅の瞳がわずかに細められ、一瞬だけ
「伴侶……?」
低く反芻するように呟き、静かに首を振る。「彼女たちは救った。それだけだ。
庇護は与えたが、伴侶と呼んだことはない。――俺が待っていたのは、ただ一人」その言葉が瑞礼の胸奥を打つ。息が詰まり、声は喉に絡まった。
男はさらに顔を寄せ、吐息が触れるほどの距離で囁く。
「……名を告げよう。 この淵に封ぜられ、幾千の冬を越えて。――その響きが背を走る。聞いた覚えのない名なのに、どこか遠い昔から待っていた気がした。胸が灼け、魂がかすかに軋む。――懐かしさと痛みがひとつに溶けていく。
緋宮の指先が顎を静かになぞり、視線が絡み合う。吐息が交わり、瑞礼は抗えずまぶたを閉じかける。 ――唇が触れ合う寸前、世界が息を止めた。 外で轟が落ちた。
沈黙。
次いで、遠くで悲鳴が裂けた。やがて再び火が灯る。
駆け込んだ侍女が床に崩れ落ちていた。顔色は蒼白、胸の上下はなく、指先まで氷のように冷え切っている。「緋宮様――!」
従者が駆け寄り、震える声をあげる。
倒れた侍女の首には黒く焦げたような印が残っていた。衣の奥から覗いた装飾具には藤の意匠に似た紋様が刻まれている。瑞礼は目を見開く。それは龍ノ淵の入り口の祭壇に描かれていた紋様に酷似していた。
緋宮は表情を変えない。だがその瞳の奥で、紅を孕んだ金の光が鋭く燃え立つ。
「……時が、動き始めたか」その声は低く静かだったが、永劫を閉ざしてきた孤絶の氷を割るような焦燥が滲んでいた。
瑞礼は悟った。――この男は神であり、同時にひとつの魂なのだと。長い孤独と終焉の影に苛まれながら、なお人であろうとする魂なのかもしれない。 冷静な
国子とのやり取りが終わったあとも、太鼓の音は完全には消えなかった。間遠に鳴る低い響きが、雪に吸われながら谷底まで落ちてくる。それは急かす合図のようでもあり、葬列の歩みを刻む音のようにも聞こえた。 瑞礼はしばらく湖の縁に立ち尽くしていた。崖上の鎧の列が雪煙の向こうに揺れる。彼らは陣を解かず、そのままこちらを見下ろしていた。逃がすつもりなど毛頭ないのだと、その無言の圧が告げている。「……支度を整えろ」 隣で、緋宮が静かに言った。「日が高くなる前に発つ」 瑞礼は小さく頷き、洞の方へ歩き出した。足裏に洞の土の硬さが伝わる。この冷たい感触から離れることになると思うと、一歩ごとに足首が重く感じられた。 洞の中には、これまでの暮らしの名残がひっそりと散らばっている。植えた果樹、編みかけの縄、削りかけの木の器。火床の脇には、瑞礼が自分で束ねた薪がまだいくつか残っている。 それらは皆、ここで生きようとした時間の化石だった。 必要なものとそうでないものを、瑞礼はひとつずつ選り分けた。持ち出す荷など、たかが知れている。毛皮を二枚、乾いた糧と少量の果実。それだけを布に包む。 手を止めるたび、指先に灰や木のささくれが触れ、生活の匂いが鼻孔をかすめる。それはもう、戻らない日々の香りだった。 ふと、洞の裂け目の真下、もっとも光の届く一角が目に入った。果実の若木と、その根もとに寄り添う白い花。 かつて瑞白から「せめてこの花だけでも」と託され、瑞礼がこの地に埋めた花は、いまもそこに咲いている。冬の光を一身に受け、細い茎を立て、白い花弁を開いている。 植えた果実の木は葉を落とし、裸の枝だけになっている。それでも幹はしっかりと太り、白い花と肩を並べるように、静かにそこに立っていた。――この花がなければ、今ごろ、自分の心はどうなっていたか分からない。 この淵にやってきたあの日、膝をついて祈るように手を合わせたときの感触が、手のひらに甦る。瑞白の「わたしだと思ってお供させてください」という声が、遠い風のように耳の奥で揺れた。 瑞礼は吸い寄せられるように歩み寄
国子は深く頭を垂れ、それからこちらを見下ろした。「皇女は、まだあなた様のお力をお待ちです。今のまま、そう長くはもたせられません。 風と水を静めていただければ、北の里々を巻き込まずに、この騒ぎを抑えられるでしょう」 一呼吸おいて、穏やかな口調のまま言葉を重ねる。「ですが、もしお力をお借りできないとなれば……手立ては、他にもございます。人の世の理とは、時に神の慈悲よりも無残に、泥を啜るような真似も厭わぬものですから」 瑞礼の背筋を、見えない氷柱が撫で上げた。穏やかな声音の裏に、「里を楯に取る」という冷酷な刃が、鞘走る音もなく突きつけられている。 緋宮はゆっくりと息を吸った。その肩から雪がぱらぱらと落ちる。「……わかった」 その一言に、瑞礼の心臓が強く跳ねる。「ひと月だ。それを限りに、俺はお前たちの掲げる理に、力を貸してやろう」 国子の背後で、兵たちの間にほのかなざわめきが走る。国子自身はその気配を背に受けながらも、表情を崩さなかった。「ご決断、感謝いたします」「だが条件がある」 緋宮の声が、それを遮った。国子の瞳がわずかに細まる。「条件……ですか」 緋宮は、横に立つ瑞礼の肩へと視線を落とした。 瑞礼は息を呑む。凍えた空気が喉を刺した。「この男の身の安全を、必ず守れ」 その言葉は、雪よりも鋭く空を切った。「里にも、ここにも、二度と手を出すな。こやつを害せば、その時は人の理もろとも、この国を噛み砕く」 国子はしばし黙した。崖の上で風が翻り、彼の衣の裾を揺らす。「……なるほど」 やがて、小さく笑みを含んだ声が落ちてきた。「龍神が人の身を案じられるとは、思いもしませんでした」「返答になっていないぞ」 緋宮が低く言う。金紅の瞳が、遠い崖上の男を射抜いた。 国子はひとつ息を吐いた。「わかり
国子が告げた、月の満ちるころ。 洞の天蓋から覗く白光が淡く滲み、夜のうちに何度も途切れながら続いた太鼓の音は、いまは山肌を這うように低く鳴っていた。 白み始めた空の下で、瑞礼はほとんど眠れぬまま火床の灰をいじっていた。炭はすでに熾きも残さず、冷えた灰だけが指先にまとわりつく。 灰をつまんでは落とし、またすくう。そのたびに、幼いころの囲炉裏の赤が脳裏をかすめた。瑞白が火箸を握り、笑いながら炭を整えていた手つき。あの赤い火は、ここにはない。 外では風が早くなっている。崖の向こうから、金属の軋みと、馬の鼻息を含んだざわめきが、雪に吸われながら近づいてきた。 その音に顔を上げると、緋宮が先に立ち上がり、湖の方へと歩き出していた。その背を慌てて追いかける。銀の髪には細い雪が降り積もり、その肩は薄く白く縁取られている。それでも背筋はまっすぐに空へ向かっていた。 歩みのたびに、氷の下の水がかすかに鳴る。足元から立ちのぼる冷気が、脛を伝って胸へと這い上がってくるようだった。
翌日の空は重く、雪は細かな針のように降っていた。 緋宮は洞の外に立ち、湖の方角ではなく、遠い北の山脈を見つめていた。 瑞礼は火床のそばで薪を割りながら、何度も緋宮の背へ視線を送った。 太鼓の余韻がまだ耳の奥にこびりついている。中臣国子が去ってからも、瑞礼の胸はずっと冷えたままだった。「……緋宮様」 雪に吸われそうな声で呼びかける。「どうなさるおつもりなのですか」 緋宮は答えなかった。金紅の睫に積もった雪がかすかに揺れ、溶けては落ちる。 風が一度強く吹き、遠い谷底から、鈴のような音がまた響いた。瑞礼の胸に嫌なざわめきが走る。――罠だ。
数日ののちの朝、風は言葉を運んできた。雪は薄く、雲は低い。湖の遙か上方から、太鼓のようなかすかな音が降りてくる。 瑞礼が顔を上げると、崖縁に人影が並んでいた。黒と緋の衣、金の紐。馬の鼻息が白く散り、革の具足が雪を噛む音がする。 先頭の男が一歩進み出る。年は若い。けれど、足取りに迷いはない。「――御影山の主に申し上げる」 澄んだ声が、雪明りの下に伸びた。「中臣国子。御影に眠る龍神よ! 皇女の勅を奉じ、ここにまかり来た」 瑞礼の背後に緋宮の気配を感じ、振り返る。 緋宮はそのまま湖の縁に歩んだ。銀の髪に雪が降り積もっても、冷えを煩う気配はない。ただ、金紅の瞳が淡く光を宿し、上の人影を静かに見ていた。「……俺に何の用だ」
春はまだ遠く、風は氷を孕んでいた。薄い雪は途切れることなく落ちつづけ、それでも季節の理からすれば、そろそろ止んでいてよいころだった。 だが、今年の淵は違っていた。夜毎、風が鳴り、氷が裂け、人が落ちてくる。 最初はひと月にひとり。 けれど次第に間隔は縮まり、今では十日と空かぬうちに水の音がする。湖面の割れ目から浮かぶ身体は、瑞礼には見慣れぬ衣を纏っている者もいた。 蝦夷の民の刺繍でも、山の里の織でもない。絹の裾、金の紐、そして指には玉の輪。 瑞礼は震える指でその輪を外し、手のひらに載せた。薄曇りの光の下で、それは鈍く青を返していた。「……知らない匂いだ。蝦夷の者じゃない」 独りごとのように呟いた声が、白い息に溶けた。目を伏せて、そっとまぶたを閉じてやる。 ――だが、その手を制したのは、緋宮の声だった。「やめろ」